柴田武「日本語はおもしろい」 pp178ー187 (P178)     目立たないアクセントを目ざす  平板アクセントの出現  戦後パーティーは、大勢の人が一堂に会して飲み食いする、代表的な集会の形式になった。ふつうのパーティーは、要するに集団立ち食いであって、もともと育ちのいい日本人にとっては耐えがたい振る舞いである。だから、これではものが喉を通らないといった人もいる。それに、二時間あるいはそれ以上立ちん坊するのは、近ごろ生活で立ちん坊することの少ない日本人にとってつらいということもある。  この「パーティー」ということばを実際には「パーティ」と末尾は短く発音することが多い。このことは、すでに「長くない外来語の長音」のところで述べた。しかし、律義な人は、「パーティー」と末尾も特に長く引いて発音する。しかし、少々わざとらしい発音になる。発音はいずれにしても、このことばのアクセントは、最初のパに山がある。最初は高くして、あとは低いままのアクセントで、これを頭高(あたまだか)のアクセントなどといっている。 (P179) ところが、首都圏のT学園の一部では、これを平板に発音するアクセントを使い出したという。平板とは、最初を低く始めて、あとはずっと高いままで続ける型のアクセントのことである(b)。出だしこそ低いが、全体が平らなので平板というのである。  T学園では、頭高のパーティ(ー)(a)は、会費も五千円以上の豪華な立ち食い、平板のパーティ(ー)(b)は、学生どうしのコンパに相当する、安上りの立ち食い、座り食い自由の集まりとして区別する。  これは、同じことばがアクセントで二つのことばに分化した例である。平板アクセントが新しく生まれたアクセントである。  こういうことが起こるのは、一つは、学生たちのスラングとしてである。なかば戯れに言ってみたのが普及し出したのであろう。また、これがアクセントだからでもあって、アクセントは、頭高を平板に言いかえても、それで、ことばとして通じないというものではない。英語などのアクセントと違って、日本語のアクセントは、物にそうっとかぶせた薄絹みたいなもので、少々ずれても、しわが寄っても、物がほこりをかぶるわけでも、いたむわけでもない。  こちらは女子の学園で、パンツと、パンツの区別が生まれたらしい。頭高の (P180) パンツは、昔からある男性の下ばき、それに対して、平板のパンツは、トレーニング・パンツなどというズボンのこと。こちらは女性も使う衣類である。  ここでも、同じ一つのことばがアクセントで二つのことばに分化している。平板アクセントのほうが新しいものを表わしている。  出川直樹氏の「現代語私見」でもこのことがとりあげられ、パーティー、パンツのほかに、チームやゲームも、頭高と平板で使い分けられているという。頭高のチームは、普通のスポーツのチームだが、平板のチームは、渋谷のセンター街あたりで夜の夜中に路上でしゃがんだりしている一団のこと。ゲームも、頭高なら普通のゲームなのだが、平板のゲームは、ゲームセンターやパソコンなどによる遊びのこと。出川氏は、この平板アクセントを「棒ことば」「棒発音」「棒言」などと呼び、感情をあまり表面に 出さない青少年がふえたからではないかという(「週刊ポスト」一九九四・一O・三O号)。  しかし、多くは、意味の分化までは引き起こさず、平板アクセントのほうが、「新しい」「若々しい」「都会的な」「仲問うちの」言い方というイメージを伴うだけである。そういう平板アクセントの出現、つまり平板化が最近の著しいアクセント変化として多くの人に気づかれている。 (P181)  平板化の成り立ち どうしてそういうことが起こったのか。今後どのようになるのか。そういうことについて考えてみたい。  データ、レベル、ゴールは、いずれも頭を高くするのが格好いいことになっている。サーフアー、タックル、ラーメンという頭高の語も、いまは平板に発音することが好まれる。ショッピング、バッテリーという長いことばについても同様である。  まず、右にあげた例はすべて、もともと頭高のアクセントである。平板化は頭高アクセントについて著しいということがいえる。  もちろん、すべての例がそうではない。スクラム、スポンサー、リポーターは、もともと、いずれも、初めから数えて二番目が高いアクセントである。スクラム、スポンサー、リポーターのように。NHK放送文化研究所の最上勝也さんがニュースや番組で耳にした、平板化したアクセントを集めて表にしているが、それを見ても、圧倒的に、もともとが頭高だったものが多い。このことは最上さんも指摘している(「放送のことばとアクセントー外来語 (P182) アクセントの平板化を例にー」「日本語学」一九九四年五月)。  どうして頭高がねらわれるのか。東京アクセントは、頭高を除くと、すべて、低く始まる。低く始まる場合を全部合わせれば、もちろん頭高一つの場合よりも絶対的に数が多い。だから、頭高は特に、耳立つ印象を与えるアクセントである。それを消して、低く始まるグループに合わせて、全体に目立たないアクセントにしようとする動きが平板化だと説明できる。  しかし、低く始まるものには、スクラムのような、終わりから数えて三番目というものもある。外来語のアクセントの型としては、これが最も優位にある。にもかかわらず、これに同調せず平板になぜ走るのだろうか。  それは、日本語で一番多いアクセント型は平板だからである。日本語から外来語を引いた在来語についていうと、四七・三%が平板である。これは、NHK編の『日本語発音アクセント辞典改訂新版』(日本放送出版協会、一九八五年)の五万三千語から得た数字である。  外来語のアクセントが平板化するのは、いわばいっそう日本語(在来語)らしくなることである。  しかし、そういう、多数・少数の数の力関係だけで平板化が進んでいるわけではない。すでに触れたように、「新しい」「若々しい」「都会的だ」というイメージを伴いながら仲間う (P183) ちのことばとして爆発的に普及しているのだと思う。  サーフアーと頭高で言っているうちは素人、玄人になればサーファーと平板に言うんだという意識が働いている。「君たちサーファーなの?」と平板のアクセントで若者たちに声をかければ、「この人、わかってる」と一目置かれることになる。この平板化アクセントを「専門家アクセント」とか「業界アクセント」とか言う人のあるのはそのためである。わたくしはむしろ「仲間うちアクセント」のほうが的確な言い方だと思う。  最上さんが掲げた一二O語ほどを一つ一つ点検すると、ほとんどすべて具体名詞であるとに気づく。すでにあげた例は、例外なく具体名詞である。  やや抽象的と思われるものに、アングル、イメージ、オーダー、サイクル、ジレンマ、ジンクス、スペース、ナンバー、フュージョン、ベクトル、ユーモア、キャラクターなどがある。しかし、これらのうちでも、アングルはカメラアングルのことだろうし、ナンバーは、ナンバープレートやバックナンバーのナンバーのことだろう。これらは具体名詞として扱うことができるかもしれない。  こういうものに対して、抽象的な概念を表わすリベラリズム、アイデンティティー、フィクション、フィロソフィーなどは、なかなか平阪化しないだろうと思う。 (P184)  外来語アクセントの平板化は、頭高の具体名詞から始まっていると見ることができる。冒頭にあげた、パーティーとパーティー、パンツとパンツの区別も、おそらくそのうちに消えて、平板だけになるだろう。どんな立ち食い会もパーティーと平板で言われることになろうという見通しである。  平板化は、外来語だけでなく、在来語にも見られること。パーティー、パンツに匹敵する例に、二つの「彼氏」がある。週刊誌の記事に、でも、彼氏(ちなみに、このアクセントは平板)に見つかるのはちょっと。という会話が出ていた(山田美保子氏の文。「週刊文春」一九九四・三・一O号)。  まだ、女性語の範囲にとどまっているのかもしれない。結婚した女性にとって、その夫は頭高のカレシ(カレシ近ごろ早く帰ってくる?)だが、ちょっと人に言えないパートナーの男性はカレシ(ちょっとカレシに会ってくる)で、このことばは、ささやくように発音するのだそうだ。平板で目立たないアクセントで、しかも、ささやき声でいうとは、なんとも妙技である。この二つのカレシもおそらく、将来は平板だけになるだろう。 イントネーションの平板化 (P185)  アクセントの平板化と明らかに連動している現象に文末イントネーションの平板化がある。東京の行きつけの有名スーパーのレジでお金を払うとき、アルバイトの若い女性は、ひとりに限らず、しばしばaのように、まっ平らで、最後に近い「デ」を少し長めにして、スを心持ち上昇させる。もともと東京語としては、bのように山が二個所もあり、末尾は当然下降するアクセント・イントネーションなのが、最初の例のように平板となる。  これを聞いたときの印象は、きわめて事務的で、反問や質問を受け入れない感じがする。おそらく、最初は、お金のことだけに、ことごとく口にしないところに根があったのではないか。 a. ニジューニエンデス(22円です) b. ニジューニエンデス  とすると、語のアクセントの平板化と目ざすところが共通する。目立たないものを目ざすということである。  アクセントの平板化のほうは、早くから、多くの人に気づかれているが、このイントネーションについては必ずしもそうではない。このことに気づいた時問的、順序から言うと、語のアクセントの傾向が文アクセントに及んだと考えたくなる。しかし、ことがらの性質からすると、こういうイントネーション、あるいは、さらに大きく、話し調子全体の傾向が語のアクセントに及んだと推定したいところ (P186) である。  東京語と平板アクセント  最初に断わるべきだったが、ここでとりあげるアクセントは、すべて、首都圏における東京アクセントである。地方の実情は、まだわかっていない。  平板型とは、最初を低くして、あとはずっと高いままのアクセントのことだとはすでに述べたところだが、それは、別の観点からすると、どこにも下降する(高から低へ移る)ところのない型である。下降するところに「アクセントの山がある」とすると、平板型はアクセントの山のない型ということになる。しかも、それがいろんな型のアクセントのうちで最も多く、在来語の全体の半分近くを占める型でもある。  半分近くは、アクセントの山をつけないで発音するのが日本語である。東京アクセントで話したい地方出身の人や、日本語を学んでいる外国人には、迷ったら、疑わず平板型で発音しなさい、平板型以外で発音して、それが間違っていると、いやに耳立って不利だからと、アクセントのコツを伝授することがある。いや、地方出身のわたくし自身の言語行動の隠れた規準でもある。 (P187)  ところが、困ったことには、外国人はこの、山を置かないアクセントは大の苦手である。なぜなら、アクセントを持つ多くの言語、英語でも中国語でも、山のないアクセント型はないからである。  中国語のマー(馬)は平らアクセントだから、中国人にはやさしいだろうとも思うが、彼らの平板は、ちょうど京阪アクセントの、初めから高くて、ずっと高いままのアクセントと同じで、東京アクセントのように、初めを低くするのとは違う。  在日外国人の間で先輩から後輩に伝授されている、日本語をうまく話す秘伝の一つは、モノトーンに話せということである。単調に話せとは、日本語の半分ほどは平板だから、全部平板でしゃべっても二分の一程度の確率で当たることから来ている。