金田一春彦「日本語・下」 pp153ー161 (P153)    三 単語の形態  表記の不安定さ  日本語の単語を形態の面から眺める時、まず第一の特色は、一定の形をもたず、不安定だということである。これは、日本人はあまり意識していない。気付くのは外国人、ことに欧米人で、日本語を勉強した欧米人は、これを知ると、まずびっくりし、次に不安感をいだき、不快になる人が多いようだ。  これはまず表記に間題があり、「ひと」という単語は、「人」と書いても、「ひと」と書いても、「ヒト」と書いても、どれも誤りとされない。激石の『坊っちゃん』に、    靴足袋ももらった。鉛筆も貰った。帳面も貰った。 というところがあるが、なぜ一度は仮名で書き、二度は漢字で書いたかと問われたら激石は困ったろう。  しかし、不安定な語が多いという特徴を、日本人は時に利用することがある。上田敏がカール・ブッセの詩を訳した「山のあなた」は、   山のあなたの空遠く   「幸」住むと人のいふ 噫(ああ)我ひとと尋めゆきて   涙さしぐみかへりきぬ   山のあなたになほ遠く   「幸」住むと人のいふ (P154) となっていて、第二行と第六行のヒトは漢字で書かれているが、第三行のヒトは仮名で書かれている。これは漢字で書いたヒトは世間一般の人を表わし、仮名で書いたヒトは、自分の意中の人、自分と同じ心の人を表わした。つまり、二つのヒトが別のヒトであることをあらわしたものと解される。  さらに終戦前には特に多かったが、人によっては、「他人」と書いて「ひと」とふり仮名をしたり、女人と書いて「ひと」とふり仮名をしたりしたが、それも誤りとはされなかった。終戦後、〈同じ語は、同じ形で〉という精神が強くなったのはけっこうなことだった。ただし、この種の表記の不安定は、漢字と仮名とをまぜて表記する場合にはまだまだなくなってはいない。「あきらかに」ということばが「明きらかに」「明らかに」「明かに」の三通りが通用し、さらに「明に」と書かれることもないではない。  発音の不安定さ (P155)  ところで、日本語の単語は、表記文字がひと通りでないだけでなく、発音でも二種類以上のちがった発音をもつものが多い。それも激しいちがいをもった語が多い。それは、漢字で書かれた単語を音読みしても訓読みしてもいいというところから来ることで、戦後は、なるべく一つの語形は一つの読み方という方針が立てられたが、それでも「春秋二期」とある「春秋」の部分はハルアキと読んでもシュンジューと読んでもよさそうである。haruakiとsyunzyuuでは全然共通点がなく、こういうことは世界に類がない。同じ字にちがった訓がついている場合もずいぶんちがった音になるわけで、「心の中で」とあった場合、「心のナカで」「心のウチで」どっちに読んでも同じ意味で、少なくとも戦前はどっちも間違いではなかった。  人間の姓名でさえ訓読み・音読みどちらも通用していることは、外国人をことに驚かすようで、菊池寛の名前がヒロシでもいい、カンでもいい、川端康成の名がヤスナリでもいい、コーゼイでもいい、というようなことは本当とは信じられないらしい。  難しい略語  「ワセダ大学」が略称でソー大となり、「外国カワセ」が外タメとなり、「ラクゴ研究会」が略されてオチ研となる理由も、ちょっと理解が難しかろう。株式用語のオーテボーというのは「大手亡」と書き、これが「大型の手なし隠元豆」のことだとは、日本人でもちょっと解しにくい。  発音の中で特にゆれの大きいのはアクセントである。標準アクセントと言われているものだけをとっても、「電車」はデンシャ・デンシャの二様、「映画」はエイガ・エイガの二様のアクセントを有する。多少耳遠い単語では、ゆれがさらにはなはだしく、「ありか」はアリカ・アリカ・アリカの三種のアクセントを有する。これは、ありうるすべての型で発音されうるので、こうなるとアクセントがきまっていないというのと同じような結果になる。 (P156)  単語の長さ  日本語の単語の形態で、二番目に注意することは、第=章でちょっと触れかけたが、日本語の単語は、しばしば拍数が多く、長大で非能率的だということである。英語でIと一拍で済むところが、日本語では、ワタクシと四拍になる。  単語が短くて有名なのは、中国語・アンナン語・タイ語・ビルマ語・チベット語など、いわゆる〈単音節の言語〉と称せられる、一群の東南アジアの言語で、単語は原則として一拍である。日本語で言えば、「歯」とか「眼」とかいうようなものだ。現在の中国語では、二拍の単語が多く、「太陽」(=日)、「月亮」(=月)などがその例であるから「単音節の言語」という名はあたらないが、それでも一拍の語は多い。アメリカの小説『風と共に去りぬ』の題が、ただ『飄』と訳されたそうであるが、さすが単音節の言語である。ヨーロッパ語では、英語が一拍の単語が多くて有名である。日本の『源氏物語』をA・ウェーリーが英語に訳した時、「みかどはおほとのごもりぬ」というのを、"He slept."という一拍の語、二個で訳して評判になった。  四拍語が多い  日本語は、これらに対して四拍の単語が多いことが目立つ。例えば辞書で「さ」のページを開いてみると、 (P157) サイダー、さいたい(妻帯)、さいだい(最大)、さいたく(採択)、ざいたく   (在宅)、さいたま(埼玉)、さいたる(最たる)、さいたん(最短)、   さいだん(祭壇)、ざいだん(財団)…  実に見事なもので、世界の奇観であろう。これは日本語の意味をもった最小の語形――松下大三郎によって〈原辞〉と言われるものが、ヤマ・カワのように多く二拍で出来ており、それが二つ組合わせられて出来た単語が多いからである。そうして右に見られるように、漢語のものがことに多く、漢語はおそらく全体の半分以上が四拍語であろう。  略語も四拍語に  日本人は、この四拍の形に何か落ち付きを感じて特に好むような傾向があるようだ。長い言葉を短く言う場合、四拍にちぢめることが多い。例えば、   東京大学→トーダイ、卒業論文→ソツロン、天ぷら丼→テンドン、   原子力発電→ゲンパツ、 重要文化財→ジュウブン、   懐かしのメロディー→ナツメロ、パーソナル・コンピュータ→パソコン、   マザー・コンプレックス→マザコン… などいくらでもある。   ゴム長(靴)、バス停(留所)、インテリ(ゲンチャ)、   マスコミ(ュニケーション) のような、あとの部分を略したものもある。  渋沢秀雄によると、いつか政府の売春問題審議会のメンバーが料理屋で会合をしたところ、女中さんが「売春さん、至急電話口まで……」と呼ぶので苦笑いだったそうだ。 (P158) それからもう一つ、日本人は花の美称などに五拍の名を付ける傾向があり、 ハツカグサ(牡丹の異名)、オキナグサ(菊の異名)、ワスレグサ(萱草   (かんぞう)の異名)、サシモグサ(ヨモギの異名) など、それであるが、和菓子の名のキョウガノコ・タマツバキなどもそれで、これは相撲取りのチヨノフジ・フタハグロや、米の銘柄のササニシキ・コシヒカリに及ぶ。これは、ちょっとした詩の一句を作る気持である。  長大な単語  さて、長い単語として、有名なのは、イギリスのウェールズにある駅名、   Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwlllantysiliogogogogoh だったが、駅がなくなったのは残念だ。  日本語では、日本国家の古い名前は、トヨアシハラノチイホアキノナガイホアキノミヅホノクニで、伝説によると、天皇家の先祖には、アメニギシクニニギシアマツヒタカヒコホノニニギノミコトという人がいたという。日本語は拍の種類が少ないので、とかく長大な単語が生まれやすい。  現代語で長いのは、斎賀秀夫が見付けた、   禁酒運動撲滅対策委員会設立阻止同盟反対協議会 で、こうなると、この協議会は禁酒運動に賛成なのか反対なのか、ちょっとわかりにくい。固有名詞でなく、一般名詞では、 (P159)   塩酸パラアミノベンゾイル=ジ=エチル=アミノ=エタノール というのがある。これは、商品名でノボカインと呼ばれる薬品の正式名称だという。  ヨーロッパでは、長い単語の多い言語はロシア語とドイツ語が有名である。ロシア語は、ちょっと本を開けば、internatsionalizirovat'(国際化する)とか、chelovekonenavistichestvo(人間嫌い)とかいう言葉が、すぐ目に入る。ドイツ語では、「電話番号案内所」というのは   Telephonummerauskunftsstelle というそうだ。ドイツ語は、単語をどんどんくっ付けて一語にしてしまうからで、「九九九九万九九九九」なども、滅法長い単語になる。  イェスぺルセンは、サンスクリット語やゼンド語(=古代ペルシャ語)等の古代語には、非常に長い単語が多い、昔にさかのぼればさかのぼるほどバカ長い語の数が多くなる、と言っている(『言語』)。英語のhadは、ゴート語のhabaidedeimaに相当するという。そうして長い不器用な単語は、野蛮の指標と考えるべきものだと論じている。  同音語の多さ  次に日本語の単語は、形の上から見て同音語の多いことが有名である。短く言おうとするとどうしてもこうなるので、国立国語研究所から『「同音語」の研究』という出版物が公刊されているが、こういう出版物が出る国は珍しかろう。ことに漢語にそれが多く、国語辞典をばらばらめくってみると、キカンとかコーセイとかいう項目にはおびただしい数の同音語が並んでいる。職業名でセイカギョーと呼ばれるものが、「製菓業」「製靴業」「青果業」「生花業」と四つある。憲法のゼンブンというと、「全文」か「前文」かわかりにくい。「令閨」と「令兄」は同じ文脈に現われ、とりちがえやすい。「礼遇」と「冷遇」、「不動」と「浮動」に至っては、意味が反対になる。 (P160)  もっともこのような同音語が多いことでは、上には上があって、中国語やタイ語は日本語以上である。中国語やタイ語は、同音語だけで簡単に一つのセンテンスができるからすさまじい。タイ語の例で、 mai(木) mai(新しい) mai(〜ない) mai(燃え) というと「新しい木は燃えない」という意味の諺になるそうだ。橋本万太郎によると、中国語で、「詩人の石室さんは姓を『施』というが、シシが大好きで、シシを十頭食べてみせることを誓った」という意味のことを、   shishi shishi shi-shi, shi shi, shi shi shi shi. shi shishi shi shi…… というように、shiばかりで言えるそうだ。日本語で作ったら、「貴社の記者は汽車で帰社する」、あるいは「歯科医師会司会」とでもいうことになる。  同音語は、しかし、しばしば行きちがいのもとになる。西南の乱は、薩摩の電報局長が、中央政府から薩摩に派遣されていた警部あての電報文を誤読したことから起こったと聞く。 警部は鹿児島の私学を視察していたが、中央政府はそれにあて、シサツヲオエタラカエレと打電した。それを西郷びいきの電報局が「刺殺」と誤読したことから起こったというのである。 (P161)    四 自然関係の語彙  1 気象・季節を表わす言葉  日本人と天候  日本語には自然を表わす語彙が多いというのが定評であるが、これは日本の自然が変 化に富んでいることと、もう一つ日本人が自然に親しみ、強い関心をもって来たことを 意味する。  玉村文郎に発表があったが、「月」というと、日本人は「雲」や「芒(すすき)」や 「三日月」のようなものを連想するが、英語系の人はまず、「探検」という言葉を連想 するのだそうだ(『言語生活』昭50・1)。  アメリカ人にとっては、ピューリタンの時代からwildnessは人間の支配の及ばない 悪魔の住み家であって、彼らはcivilizeされたgardenを善しとしたという。その点、 自然『のふところに抱かれて生活することを理想とした日本人は大いにちがう。