安藤貞雄「英語の論理・日本語の論理」 pp282ー290 (p282) D.積極的vs.消極的な行動様式  西欧人の行動様式は、<我>が積極的または攻撃的に<汝>に働きかけていく趣きがあり、それが言語的にはActor-action-goal型、つまり、<スル的>な言語表現の愛用において結実しているのに対して、日本人の行動様式は、物事が「自ずからナル」のをよしとする傾向が強く、それが言語的には<ナル的>な言語表現として実現していると思われる。たとえば、客に菓子や食事を勧めるような場合、英語では  (1) You must eat this cake. のように、日本人には押しつけがましく響くほど、自信たっぶりな、積極的な表現が用いられる。一方、日本語では、たとえば、 (2)a.お口に合わないかもしれませんが… b.何もございませんが… (P283) のように、西欧人には偽善的に響くのではないかと思われるほど、へり下った、消極的な表現が用いられる。英語の話し手は、これはおいしいのだからぜひ食べてみなさいと積極的な行動になるのに対して、日本人は、自分はおいしいと思っても、相手が好むかどうかは不明なので、どうしても遠慮がちな行動様式になるのだと思われる。どちらの行動様式がすぐれているというのではなく、ここに積極/消極の対立が見られることは確かであろう。  行動様式の積極/消極の対立は、"information" /「受付」という言語表現にも見いだされるし、また、  (3)Do to others as you would be done by. (自分にしてもらいたいように他人にもせよ。) というキリスト教的倫理観に基づく黄金律(the golden rule)と、  (4)「己所不欲、勿施砂人)」(己れの欲せざるところは人に施すること勿れ)     ――『論語』(VI.顔淵第十二) の教えの方向性の違いにも、または、次のような、彼我の広告文の違いにも見いだされる。  (5)a.Drink Coke.     b.すかっとさわやか、コカコーラ。  (6)a.New Kent III 100's. Experience it. [Kent] (新ケントIII 10センチ巻、味わってみなさい。)     b.白いべストセラー。[マイルドセブン] つまり、コピーライターは、英語では命令文を多用するのに対して、日本語では命令文を使用することはまずないのである。(広告文では、このような積極/消極の対立のほかに、(6)のa、b文からも窺われるように、英語では論理的、一方、日本語では情緒的・ムード的という対立が加わっている場合がある。) (P284)  こうした行動様式の積極的/消極的の対立は、彼我のあいさつの表現にも窺うことができる。山田稔という作家がある所で書いていたのであるが(『東京新聞』57年4月2日夕刊)、欧米人のあいさつでは、「今日は、お元気ですか」に対しては、「はい元気です」と答えるのが習慣である。たとい体調が悪くても、自分の体の不調を口にするのは失礼に当たるという社会通念に従っているわけである。(私[安藤]は、イギリス人から「お元気ですか」と聞かれて、日本流に「まあまあです」の旨の返事をして、けげんそうな顔つきをされた経験がある。)   一方、日本人同士なら、「お元気ですか」に対して、「ええ元気ですよ」と答える人もいるかもしれないが、たいていの人は「まあまあです」と消極的な答えをするのではないか。日本の文化にあっては、明確な答えはぶしつけ、あるいは厚かましいと感じられるので、健康と病気の中間、「まあまあです」と答えるのが礼儀に適っていると考えるのであろう、というわけである。  NHKの教育テレビで柔道の型を見ていると、ほとんどの技は相手の仕掛けてくる力を利用するものであることがよく分かる。そこで、三船十段のように小兵の人でも、大男を投げ飛ばすことができるのであろう。これは、西欧人にとって、非合理的あるいは神秘的にさえ見えるかもしれない。国際柔道では体重別が採られているが、そういう合理主義的な考え方は、日本古来の柔道(また他のすべての武道)に無かったものであろう。  五味康祐の芥川賞受賞作に「喪神」というのがある。主人公の剣客は、無我の境地で、相手が切り込んでくるまでじっと待つのである。政治に目を転じても、日本の政治家は「待ちの政治」をする人が多いし、また、その姿勢が一般に好まれていると思われる。  結局、西欧人の行動様式が「啼かぬなら啼かせてみようほととぎす」だとするならば、日本人の理想とする行動のパタンは、「啼かぬなら啼くまで待とうほととぎす」であると言えようか。 (P285)     E.自己主張の文化vs.自己滅却の文化  積極的な行動様式と消極的な行動様式の対立は、さらに、自己主張をよしとする文化と、自己滅却を理想とする文化の対立へと、つながって行くと考えられる。  (1)あらゆる時代を通じて、日本人は家族的な「間」において利己心を犠牲にすることを目差していた。 と、和辻(1935)は言っている、「犠牲にすることを強いられた」のではなく、「目指した」のである点に注目すべきである。  亀井俊介氏は、「英語教育」(大修館書店)のある号で「アメリカでは、だれもかれもが自己の権利を主張し、その是非を法律によって裁定してもらおうとする。その結果は、人間同士の孤立感、不信感、社会の不安定が進むばかりである」と述べておられるが、ともかく、そういう人生態度は良いことだという価値観があって、幼い時から叩き込まれているようである。  次は、最近のニューヨーク・タイムズの記事である。 (2)a.「日本の労働者は、国全体のことを考えている、アメリカ人は、次の週末の      ことで頭が一杯だ。」    b.「日本では、家庭や工場の一員であることが強調されるが、われわれは、      めいめいが自分のことしか考えない。」  一方、日本の社会では、あまりにも自己主張の強い人は爪はじき――村八分と言ってもいい――される傾向がある。日本では、おそらくどの集団でも、人を採用する際の最も重要な規準の1つに、協調性、あるいは<和>を尊ぶ心、というものがある(大学の人事でも、その点は非常に重視される)。日本人を特徴づける同調志向の源は、この辺に求めることができると思われる。それは、言語的には、「思いやりの言語」として具現化することがある。たとえば、英語のYes/Noは、自分の言わんとする文が肯定であるか否定であるかを予告するものであって、話し手中心(speaker-oriented)の語であるが、一方、日本語のハイ/イイエは、相手の発言の真偽に対する反応として用いられるものであって、聞き手中心(hearer-oriented)の語である。 (P286)  また、日本語では、明確な表現をすることを避け、輪郭をぼかして表現する傾向がある。例をあげてみよう。  (3)a.肉を500グラムほど下さい。[少々誤差があってもさしつかえない]     b.お茶でも飲みませんか。[コーヒーでも結構]     c.電話でなり知らせてください。[手紙でも可]     d.私などは,そう考えている。[余人はいざ知らず] (3)の諸例のような“ぼかし表現”は、「非論理的」であるというよりも、角がっこ内に記したような、相手への思いやりを込めた文と考えるほうが一層妥当であろう。つまり、相手に自由裁量の余地を残しているわけで、「思いやりの言語」としての日本語の性格をよく表していると考えられる。ついでながら、(3)dのような“へり下りの”「など、ら」の用法は、すでに万葉の時代から見られることは注目に値する。  (4)憶良らは今は罷(まか)らん子哭くらむそれその母も吾(わ)を待つらむぞ。     ――万葉集巻三  また、日本語に特異な現象として、「すみません」という詫びの言葉が「ありがとう」という意味のお礼の言葉に転用されることがあるが、これも、相手本位の、自己否定的表現を好む日本人の心情の現れとしてはじめて理解可能になると思われる。海外で自動車事故を起こしたような場合も、日本人はすぐ「すみません」と言う傾向があるので、あとで非常に不利な立場に立たされることがあるという話を聞く。西欧人は、非が自分にある場合でさえ、まず絶対に「すみません」とは言わない。「すみません」と言うことは、自己を否定することにほかならないからである。 (P287) アメリカ人は、イギリス人よりももっと自己主張が強いと思われる。彼らの口ぐせは、  (5) Why don't you stand up for your rights? (なぜ自分の権利を守ろうとしない      のか。) であるが、日本人は自分の権利よりも、自分の属する集団の福祉のほうが大切だと考えるのではないか。アメリカ人に向かって残業しろと言えば、晩の時間は会社のじゃなくて自分のだから、そんなことはご免だ、という答えが返ってくるであろうが、たいていの日本人の反応は、「会社のためなら仕方がない」というものであろう。「仕方がない」という言葉は、日本人のよく発する言葉であるが、これは典型的には、<個の論理>よりも<共同体の論理>を優先させなければならないときに発せられるもののようである。 自己犠牲ないし自己否定をもっとも強く要請された武士階級が、自己実現のほとんど唯一の方法として、「無我」を説く禅に惹かれたのは無理からぬことであったと言わなければならない。もっと正確に言えば、<自己減却>が「無我」とか「無心」の思想に結びついたとき、それは武士道に限らず、茶道・墨絵、俳句など日本のすべての芸道が志向すべき境地となったのであった。  ちなみに、日本で論理的な哲学・思想体系がついに発達しなかったとすれば、それは、―般に理屈よりも実践、頭よりも心を重んずる傾向があったところへ、特に禅における言葉ないしロゴスに対する抜きがたい不信がその傾向に拍車をかけたのではないか、と私は考えている。1) (鈴木大拙は、「言葉は現実を概念化してしまう」と言っている。) 次の詩を読まれたい。(英訳はFitzsimmonsに基づく)。  (6) 沈め sink 歌うな don't sing ただ黙して be simply silent 秋景色をたたむ紐と  and be      なれ。 a string to wind around autumn. (P288) これは「詩」と題する大岡信の詩であるが、この中で詩人は、「沈め/歌うな/ただ黙して…」と詠っている。アメリカの詩人Thomas Fitzsimmonsにこの詩を見せたところ、アメリカの詩人が詩について言うとき、「沈め」とか、「歌うな」とか、「ただ黙して」とかという発想は、まずもってなかなか生まれて来ないねと言った、と大岡が伝えている。 F.人間関係の非連続vs.連続  西欧の社会では、一般に個性が確立していて、個と個の間は非連続であるのに対して、日本の<ウチ>の最小単位である<家>においては、一般に人間関係が連続していると思われる。その証左は、いくらでも見つけることができる。  事例1 日本では、自分の子供がプレゼントを貰ったような場合、親の方もお礼を言うことが期待される。私はかつて、あるイギリス人の家庭のクリスマス・パーテイーに招待されたとき、ホストの娘さんに日本から持参した京扇をプレゼントしたことがあるが、当然のことながら、両親の側からのお礼の言葉は何もなかった。  事例2 日本の妻は、夫の勤務先の上司から電話がかかって来たような場合、「(主人が)いつもお世話になっています」とお礼を言うのが普通である(言わなくてもいいが,言わないのは非社交的と見なされるであろう)。日本では、夫と妻はつながっているので、夫に寄せられたpatronageは同時に妻に寄せられたものと解されるのである。欧米の妻はそういうことを言わないとされているが、それは、そういうお礼の言葉は、妻の援助がなければ一本立ちできない男という印象を与えてしまうからである。 (P289)  事例3 日本では、家族の一員が犯罪を犯したような場合、それは他の成員にとって大きな負い目としてのしかかって来る。わが子の犯罪を恥じ、世間に対して申し訳ないとして自殺する親の話も決してまれではない。(こうした傾向は韓国にもあるようで、儒教の影響によるものと考えられる。)しかも、これは個人のレべルにとどまらないのである。何年か前、日本赤軍がテルアビブの空港で爆破騒ぎを起こしたとき、日本政府はイスラエルに賠償を申し出て、世界中の人々に、<家的>な日本的共同体の特異性に目を見張らせたことがある。  事例4 日本では、生活に困った親(通例は母親)が子供を道連れに親子心中をするという事件がときどき起こる。これは欧米ではまず見られない、きわめて日本的な事件であるが、これも<ウチ>の人間関係が連続している証左と言える。子供は親の分身または所有物の―部として、独立した人格が認められていない、ということであろう。    事例5 上述の「黄金律」にも現れている英語のothersは、自己以外のすべての人をさす(親きょうだいも英語ではothersである)が、日本語の「他人」は<ウチ>の人間を含まないのが普通である。  事例6 日本語では、自称詞、対象詞が入れ替わる現象が見られるが、これも、<ウチ>の世界では、自他の区別があいまいになっている1つの現れと見ることができる。たとえば、「手まえ」という言葉は、  (1)それはてまえが致しやす。 のように、元来は自称詞であるが、  (2)てめえは太(ふて)え野郎だ。 では、「お前」という意味の対象詞として使用されている。「おのれ、われ」についても、 (3)おのれは   悪いやつだ わりゃ のように、対象詞への転用が見られる。このように、自称詞の対象詞への転用によって侮蔑の気持を表すことができることについては、第9章C参照。 (P290)  西欧においても、近代になって個人主義が確立する以前は、人間の道徳は「何よりもまず、連帯と絶対的服従にあり、集団構成員は、伝統と恐怖に強いられて比較的同質な行動をした。全集団が一つの生物のように外界に反応、適応するのであり、個人は集団と浮沈を共にする以外に生きる道がなかった」(『現代哲学事典』、p.245)のであるが、日本の<家的>共同体は未だにこの段階にとどまっているのではないかと思われる。なぜなら、それは、アリとか蜜バチの社会のように、個体としての意志は持たないが、全体として強固な意志を持ち、整然と団結していて、そして丁度アリや蜜バチと同様に孜々営々と働く。そこでは<和>を乱すことは許されない、といった社会を形成しているような気がするからである。(友人の荒木博之氏は、これを日本人の“集団自我”と呼んでいる。)そういう巨大な巣の中の働きバチが力を合わせて働くときは膨大なエネルギーを発揮するけれども、同時に、その「モンスーン的風土」に培われた熱しやすく冷めやすい性格のゆえに、突発的な激情にかられた場合は、1人1人の<個>が確立していないだけに、第二次大戦へ突入した時のように、集団ヒステリー症状を起こす恐れを常にはらんでいると言わなければならない。そういう時には、もともとひ弱な<個>の論理は、<集団>の論理によって押しつぶされてしまうからである。また、<個>が確立していず、たとえば海外旅行団に見られるように、とかく集団行動をとる傾向があるので、全体主義に傾きやすい。